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花無心にして蝶を招く
2025年2月14日 - 金堀重機ブログ その他

こんにちは。金堀重機の斎藤です♪

先週は、ほんとうにたいへんな一週間でした。

市内を走るバスも、まだ運休や迂回をして走行しているので、

すべて元通りというわけではありませんが、夜を徹しての除雪作業のおかげで、

道路状況はかなり改善されたと思います。

今日からまた寒波の予報ですが、前回のようにならないことを願います。

18日に予定していた当社での玉掛技能講習も、残念ながら延期(日時未定)となってしまいました。

 

非日常においてこそ、いろんなものごとの底力というか、

本質が輪郭を帯びて見えて来るような気がします。

 

会社までの道は、歩道が除雪された雪で埋もれて歩けない状態でした。

どうやって進んで行こうか途方に暮れていると、渋滞で停まっている車の窓を開けて、

わざわざ声をかけてくれた人がいました。

「おねえさん、おねえさん、みんな、車道を歩いて行っているよ」

さいしょ「おねえさん」が自分のこととは思わずにスルーしていたのですが、

私のことでした(ちょっとうれしい)。

 

また、ある日の帰り道には、

見知らぬおばちゃん:「おねえちゃん、今、雪掻きしたからこっち歩いていって!」

斎藤:「はっ、ありがとうございます!」

見知らぬおばちゃん:「気を付けて帰るんだよー」

斎藤:「はい!ありがとうございます!」

 

ひとのやさしさが身に沁みました。

こんなときこそ、助け合って乗り越えたいですね。

その先には、芽吹きの季節が待っていますから。

 

こんな記事をみつけました。(https://rinnou.net/language/607/ 臨済宗 黄檗禅 公式ネットより)

 

花無心招蝶 蝶無心尋花 (道徳経)

はなはむしんにしてちょうをまねき

ちょうはむしんにしてはなをたずぬ

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

 爛漫と咲き乱れる万朶の桜でなくてもよい、草かげに人知れず咲く、一輪の草花で十分です。そこに色彩豊かな立派な蝶でなくとも、薄汚れた、ちっぽけな蝶でこれまた十分です。一輪の花に二、三匹の蝶が戯れる、どこでも見られる風景ですが、私たちは何気なく見落とします。良寛さんは、ここをとらえて無心の出合いの真実を詠いあげます。

 花は蝶を招きたいとも思わないし、また、蝶も別に花を訪ねたいとも思わない。しかし自然に出合う、即ちめぐりあうわけです。
 私たちの人生もめぐりあいの連続です。親にめぐりあい、兄弟姉妹にめぐりあい、友人にめぐりあい、夫にめぐりあい、妻にめぐりあい、子供にめぐりあい、また、苦しい事、楽しい事、悲しい事、いろいろな事にめぐりあいます。
 これはみな偶然でしょうか。偶然と言ってしまっては物足りません。宿命でしょうか。宿命と言ってしまっては救われません。では、一体何でしょうか。すべて因縁の法によって成って行くのです。最初、原因があり、そこに縁が働いて結果が出てきます。結果がそのまま、結果で終わるのではなくて、また原因となって、ある縁が加わって結果が出ます。因縁と果が循環するのです。これを仏教では因縁の法則といいます。
 例えば一箇の豆の種子があります。これが因です。畑を耕し、種子をまき、水をやり、肥料を施す、これが縁です。芽が出て実がつく、これが果です。縁の働き具合で果も大きく違ってきます。悪い因でも良縁が加わればいい果が得られ、良い因でも悪縁が加われば悪果となるのです。これが仏教の因果律です。決して宿命論的なものではありません。縁のままに花は咲き、蝶もまた、縁のままに舞う、因縁の出合いです。
 私たちのめぐりあいも、因縁の法に従っての結果です。その底に秘められているめぐりあいの糸のつながりは、私たちには見えないだけです。法則に従って生きる、否、生かされている事を謙虚に自覚して、めぐりあいを生かす生き方をしたいものです。
  子を抱いていると
  ゆく末のことが案じられる
  よい人にめぐりあってくれと
  おのずから涙がにじんでくる
                       (仏教詩人 坂村真民「めぐりあい」より)

以上(https://rinnou.net/language/607/ 臨済宗 黄檗禅 公式ネットより)

 

今日のブログのタイトルは、江戸時代後期の禅僧、良寛の漢詩の一節です。

新潟の裕福な庄屋の子として生まれましたが、出家して生涯清貧をつらぬきました。

良寛は質素な生活をしながら、

よみかきのできない農民や子供たちにもわかりやすいような説法をしました。

花無心招蝶  花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花  蝶は無心にして花を尋ぬ
花開時蝶来  花開く時蝶来たり
蝶来時花開  蝶来たる時花開く
吾亦不知人  吾もまた人を知らず
人亦不知吾  人もまた吾を知らず
不知従帝則  知らずして帝則に従う(帝則=自然の摂理)

当時の仏教というのは、時の権力と結びついて財を成した僧も多く、

本来の仏教の教えからかけ離れていました。

良寛は権力には一切近づかず、財を蓄えようともしませんでした。

曹洞宗の祖、道元の教えを頑なに守ったためです。

道元は鎌倉時代初期の禅僧で、

時の権力者である北条時頼を教化したすごい人ですが、

権力になびくことなく、その後、鎌倉を去っています。

この漢詩を読んだとき、「バタフライエフェクト」という言葉を思い出しました。

バタフライエフェクトは、蝶の羽ばたきが引き起こす風のような非常に微々たる事象が、

最終的に大きな結果につながっていくという考え方です。

たとえば、ほんのささいなきっかけが因果関係の繰り返しの果てに大きな結果をもたらす例として、

「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざを見てみましょう。

風が吹く→土ぼこりがたって目に入り盲人が増える→ 盲人は三味線で生計を立てようとする→

→三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える→猫が減る→ねずみが増える→ねずみが桶をかじる→

→桶の需要が増える→桶屋がもうかって喜ぶ

良い結果にも悪い結果にもいえることだと思います。

毎週月曜日に実施している今朝の街頭清掃では、通学路の雪掻きをしました。

会社の南側は、永和小学校の通学路になっています。

小さなこともないがしろにせず、たいせつに生きていきたいですね。

今日も最後まで読んでくださいまして、ありがとうございます♪

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