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現在の会津若松市一箕町の山奥に、金堀という集落があります。
ここは戦前から戦後にかけて石膏が取れる鉱山があり、大変繁盛していました。
その鉱山を掘るための土留め支柱を提供していたのが、
金堀重機の前身も前身、「小林材木店」という会社です。
あちこちの山を買っては木を伐採して木材を売っていました。
戦前に会津で自動車に乗るほどのお金持ちだったようです。

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昭和20年頃
木を伐採しています。
木を引いているのは馬です。

「金堀モーター商会」の誕生

昭和28年、小林材木店の社長、小林平八の妹、愛子が
(株)金堀重機初代社長となる宮澤文雄と結婚しました。
文雄が戦時中、ゼロ戦の修理をして覚えた技術を生かし、
小林平八が代表で昭和30年、「金堀モーター商会」が誕生しました。
文雄が金堀モーター商会を取り仕切り、自動車修理や
オート三輪とルノーの販売代理店を行って、利益を上げていたようです。

 

会津若松に建てた修理工場の2階は従業員の寮になっており、
まだ15歳くらいの少年たちが何人も住み込みで働いていました。
従業員全てが家族のようで、休みの日には
みんなで猪苗代湖に泳ぎに行ったりしていたそうです。

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昭和30年頃 金堀モーター商会前。宮澤文雄夫婦と現社長の洋一。 自動車の販売展示会の様子。後ろに金堀モーター商会と書いてあります。 従業員たちは休みの日もみんな一緒でした。

その一方で昭和40年頃、金堀村では石膏を採っていた会社が
倒産するという大事件が発生しました。
これによって栄華を極めた小林材木店も当時で2000万という
多額の負債を抱えて倒産してしまったのです。
もちろんこの時に金堀モーター商会も倒産してしまいました。

倒産を乗り越えて

多額の負債を抱えてどうするか、
文雄が決断したのは、一からやり直して借金を返すということでした。
そこで(株)金堀という会社を立ち上げたのです。
引き続き、自動車修理工場を行いながら、
麻雀荘、食堂などもつくって必死に働きました。
夫婦そろって10年間は毎日4時間しか寝ていなかったと
よく言っていたものです。

 

自動車修理と合わせて行っていたのが、
クレーン車を使っての自動車揚げです。
当時は道がほとんど舗装されておらず、夜中に毎日5台は落ちていたため、
それを独占でやっていたことで大変利益を出しました。
これが始まりでクレーン業を始めたのです。

 

それからクレーン業がどんどん忙しくなり、
ついでコンクリート圧送も始め、
もはや修理工場と平行では行えない状況になりました。

(株)金堀重機 設立

そして昭和50年、
ついに「(株)金堀重機」が、(株)金堀から分離して
重機専門の会社を設立することとなったのです。
それからクレーン、圧送業を続け、
宮澤文雄、小林平八の長男の小林平造、宮澤洋一というように、
現在までで三代続く会社となりました。

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昭和50年頃 (株)金堀重機 始動メンバー

ちなみに自動車修理工場である(株)金堀も
兼任で文雄が社長を行っておりましたが、
会社都合で大手自動車会社に営業譲渡しました。

 

後々、再び金堀重機の出資を受け、大手自動車会社から、
「カークリーン会津」という自動車修理工場となりました。
金堀モーター商会時代から働いていた角田氏が初代社長となり、
現在まで二代続く立派な会社となっています。

初代社長 宮澤文雄について

kane07初代社長の文雄ですが、
昭和43年、乗っていたクレーン車が転落して
瀕死の重傷を負い、その時は輸血で助かりました。
しかし、その輸血が原因で肝炎になり、
後は肝臓ガンとなって平成6年、
65歳でこの世を去りました。

 

そもそも、文雄は会津山都町のトオノクボという集落に
5人兄弟の末っ子として生まれ、
小学校を卒業してすぐ東京に出されました。
そんな読み書きも満足にできない彼が、
ここまでの会社を作るには
大変な苦労があったことは想像に難くありません。
人一倍の負けん気と努力があったのでしょう。

 

今となっては本人から話を聞くことはできませんが、
その人柄は、ベテランの監督さんや、同業会社の方など
彼を知っている人からよく聞きます。

 

「彼は本当にいい男だった!」

 

会社は社長の器以上に大きくはなりません。
私達も自分ができる努力をして、
文雄社長が作った「金堀重機」をより良いものとして
次世代に引き継いでいきたいと思います。

 

文章 宮澤 真菜
情報提供 角田 庄佐様